消えゆく鉄道'99 その3

蒲原鉄道・新潟交通  後編

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 さて、次に我々が向かうのは、新潟交通だ。

 そして、今晩は、この地に住む友人、K君を訪ねる段取りとなっている。

 彼の住む、中之口へと向かう。と同時に、付近を通る線路をロケハンしようと言うものだ。 手にした地図をもとに、最寄の駅へ向かう。

 …駅なんてどこにもありゃしない。それどころか、線路すらない。あるのは草生した、いかにも線路跡な土手ばかりだ。

 おかしい!と思い、カーナビで確認する。確かに線路は、ない。

 このページに来られた読者は、何を言ってるんだと思われるかもしれないが、そうなのだ。我々は、月潟−燕間の廃止を知らなかったのだ!

 「僕が会社に入ったころですよ」

 K君が廃止時期について語ってくれた(ちなみに彼は鉄ではない)。いやはやなんとも、こんな情報量でよく鉄ちゃんやってると思わされた一瞬だ。思えば87年、三菱鉱業に乗りに北海道まで行ったら、一週間前に廃止されていたということもあった。まったく昔から変わっていない。

 それはともかく、我々は、近所の養老乃瀧でべろべろに飲みまくっていた。新潟に来れば、月桂冠だってうまいんだな、これが。

 我々はそのまま線路際で野営の予定であったが、K君の厚意により、彼の家に泊めていただいた。米どころ新潟を感じさせる、大きなお屋敷であった。

 つつがなく朝を迎え、K君にお礼と別れを告げ(と言っても彼には翌週また会うのだが)、いよいよ撮影に乗り出す。

初対面の図

 まずは現在の終点、月潟駅だ。駅舎の傾き具合が、実に深い味わいを出している、すばらしい駅だ。

茶色のイメージ

 今日は廃止記念駅伝と称し、東関屋まで駅伝があるようだ。いっせいにランナーが走り出していった。

 ランナーと競争か?

 

 そして、線路と中之口川の間にある土手を、我々は走っていった。

 中之口川に沿うように走る

 土手走行を終えて最初にたどり着いた駅は、曲である。片面ホームのみの小駅だ。

 曲駅に進入

 

 順次撮影をしながら、ここから新潟方面へ向かうこととする。

 米どころ新潟をイメージして、水田の中を行く鉄道と言う構図を思い描いていたのだが、実際にそのような風景は沿線には皆無だ。線路はずーっと、中之口川の築堤に寄り添うように走っている。光線状態などを考えると、意外と撮影は難しいものがある。

 畑上の土手を行く

 そんなわけで、撮影地に思案しながら走っていると、もういつのまにか新潟市内だ。車を信濃川沿岸に向け、信濃川を悠然とわたる姿を収める。

 信濃川を悠然とゆく

 この鉄橋のすぐとなりが、東青山駅だ。昨日の陣ヶ峯駅跡が思い出されるような、土手上の駅だ。

 列車をまつ親子

 

 今度は月潟のほうに向かって戻りながら撮影を進めよう。

 

 途中、非常に気になる駅名を地図で発見。行ってみる。

 その駅は「ときめき」。伝説の樹などある由もないが、やはりというか、その系の落書きが多かった。メモラーの聖地となっているようだ。

 ときめき駅  新興住宅地の中にある

 次に、焼鮒駅へ向かった。ここも強烈な隘路の中にある駅で、たどり着くのに苦労した。駅前のほんのわずかなスペースに車を押し込み、しばし撮影。

 ファンに人気の「焼鮒」

 今度は越後大野駅へと立ち寄る。が、時間的に列車が来ないため、次の駅へ向かうこととする。そんなわけでこの駅では撮影はしなかったが、どの駅も味のある木造駅舎で、廃止が本当に忍びない。

 我々は、となり駅の新大野駅へと向かった。ここも片面のみの小さな駅だ。

 新大野

 ここで電車を待っていると、小学生に声をかけられた。

 「電車ですか?」

 彼らが大きくなるころには、この地に電車が走っていたことすら忘れられていくのであろうか…

 土手を下ってきた

 さて、ここもご多分に漏れず、鉄分が多い。一般乗客ももともと少なくないだけに、車内は相当混雑していたようだ。

 いつもこのにぎわいだったら…

 

 だいぶ日も傾いてきた。そろそろ撮影も終盤に入る。朝にロケハンしておいた木場駅に向かう。ここは日中も交換のある駅で、スプリングポイントが黙々とその使命を果たしている。

 木場駅構内  スプリングポイント

 構内には、北国であることを物語る融雪パイプが横たわっていたり、まつぼっくりがたくさん落ちていたり、懐かしい情景に心を打たれた。

 松ぼっくり  苔むした道床と融雪パイプ

 そして、本日の撮影最後の電車は、上下とも定刻どおり到着。お互いに交換し、パンタから火花を散らしながら去っていった。

 交換の様子  親子連れが降りていった

 …が、フィルムが若干だぶつき気味だ。これを消化すべく、我々は追っかけモードに突入した。

 農道をかっ飛ばしていけば、あっという間に電車を追い越すことができる。味方の向こうまで行って、列車を待ち受けた。

 味方付近

 そして今度は、また曲から土手に入り、先回りだ。結局2回追いついて、コマをものにすることができた。ローカル線ならではの芸当だ。

 夕暮れの枯れススキがいいムード

 追っかけに熱中していたら、いつのまにか月潟のそばまで来ていた。そうなれば間もなく折り返しの列車が来るはずだ。それを本当の最後の撮影と決め、朝一撮影した地点のそばまで戻り、ラストのコマを撮り収める。

 ラストの一本  さらば新潟交通

 これで新潟私鉄の撮影行はすべて完了した。

 列車の過ぎ去った、まだ今日現在光を湛えるレールを見て、我々は感傷にひたらずにはいられなかった。

 

 かくして、新潟交通は、4月3日をもって、時刻表から消えた。しかし、ここまで敢えて書かなかったのだが、蒲原鉄道の方は、廃止が大幅にずれ込み、9月いっぱいまで存続することが決まった。残された日は少ないが、できるならばもう一度訪れてみたいと、強く思わされる鉄道だった。

 

 月潟駅のはずれで写真を撮っているとき、地元の老婦が声をかけてきた。ご婦人は、新潟鉄道の廃止を、大変残念がっていた。それはまるで自分の子を亡くすかのようでもあった。その話をしていたときのご婦人の、寂しそうな目が今も忘れられない。「電車の写真がほしい」といっていたのだが、今思えば、住所を聞いて送って差し上げればよかったと、少し後悔する。

99.8.26

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